「水戸黄門って、そもそも原作はあるの?」
時代劇としては有名でも、その始まりや本当の話なのか気になったことはありませんか?
結論から言うと、水戸黄門の物語は徳川光圀の史実をベースにしながら、講談や小説で脚色されて広がったフィクションです。
なぜなら、実際に光圀が全国を旅した記録はなく、後世の人々が“理想の名君像”を物語に投影したからです。
この記事では、水戸黄門の原作や起源、史実との違いをわかりやすく解説します。
読むことで「黄門様」の本当の姿と、なぜ長く愛され続けてきたのかが理解できるはずです。
この記事を読むとわかること👇
- 水戸黄門の原作は講談にあるのか?
- 徳川光圀の史実とフィクションの違い
- 助さん・格さんのモデルは実在したのか?
- なぜ「黄門」と呼ばれるのか?
- 講談からドラマへ受け継がれた物語の魅力
水戸黄門の原作はどこにあるのか?

「水戸黄門の物語は誰が作ったの?」という疑問は多くの人が持つものです。
実は小説やドラマのように明確な“原作者”はいません。
ここでは、時代劇の元ネタとなった講談や『水戸黄門漫遊記』の成立背景を整理し、物語がどう生まれたのかを解説します。
ドラマや時代劇の元ネタは講談だった
結論から言うと、水戸黄門の物語は江戸時代の講談が元になっています。
講談師が徳川光圀を題材に「悪を懲らしめる名君」として描いたことで人気を博しました。
なぜなら、江戸庶民にとって「悪代官をやっつけてくれるお殿様」という設定は痛快で共感しやすかったからです。
実際に光圀が全国を旅した事実はありませんが、講談の世界で“世直し黄門様”として活躍する姿が定着しました。
つまり時代劇やドラマで見られる展開は、史実ではなく講談の物語構造を受け継いでいるのです。
『水戸黄門漫遊記』の成立背景と内容
「原作は?」と問われれば、最も影響力が大きいのが**明治期に出版された『水戸黄門漫遊記』**です。
この小説では光圀が諸国を旅しながら悪を懲らしめ、民を助ける姿が描かれています。
当時の人々にとってはヒーロー小説のような存在で、講談の流れを受け継ぎつつ“読み物”として広まっていきました。
物語の典型的な流れは次の通りです。
- 光圀一行が旅に出る
- 各地で悪人や腐敗に直面する
- 助さん格さんが活躍
- 最後に印籠を見せて解決
この展開こそ、のちのテレビ時代劇に直結するフォーマットとなりました。
原作が「作者不明」とされる理由
水戸黄門の物語は、口承文化から生まれた講談がルーツです。
そのため、近代小説のように「この人が原作者です」と特定することができません。
複数の講談師が少しずつ物語を脚色し、さらに小説化・舞台化・映像化されていく過程で形が変化しました。
だからこそ「水戸黄門の原作」と言うと、ひとつの作品ではなく講談から続く“物語の系譜”を指すのが正しいのです。
むしろ、作者不明であることが庶民文化としての面白さ。
みんなが親しみ、語り継ぎ、形を変えて楽しんだ結果、今日の「黄門様」像ができあがったのです。
徳川光圀と水戸黄門像の違い

水戸黄門は「世直し名君」として広く知られていますが、モデルとなった徳川光圀(1628〜1701)の実像とは大きな違いがあります。
ここでは、光圀の生涯と“旅する黄門様”像のギャップ、さらに「黄門」という呼称や有名な印籠シーンの真相について解説します。
光圀公の実際の生涯と「漫遊伝説」
結論から言うと、光圀は全国を旅していません。
彼は二代水戸藩主として藩政を整え、『大日本史』の編纂を進めた学問好きの名君でした。
では、なぜ「旅する黄門様」のイメージが生まれたのか?
それは講談師が、庶民にわかりやすい物語として「悪人退治の旅」というフィクションを付け加えたからです。
つまり、史実の光圀は文化人・政治家としての側面が強く、時代劇で描かれるような放浪ヒーローではなかったのです。
「黄門」という呼称の由来
「黄門」とは、唐名でいう中納言を意味する言葉です。
光圀は官位として権中納言に任じられ、その唐名である「黄門」と呼ばれるようになりました。
実際には「水戸中納言」や「水戸公」と呼ばれることが多く、「黄門様」と親しみを込めて呼ぶのは後世の人々です。
つまり、この呼び名自体が歴史的事実というより、庶民文化から育ったニックネーム的な存在だったのです。
印籠や悪人退治はフィクション?
テレビドラマで有名な「この紋所が目に入らぬか!」のシーン。
実はこれも史実では存在しません。
印籠は確かに権威を示す道具でしたが、光圀本人が旅先でかざして悪人を退治した記録はないのです。
むしろ講談や芝居での脚色によって定番化し、やがてテレビ時代劇のクライマックス演出となりました。
つまり「印籠=水戸黄門」のイメージは、史実よりもエンタメ性が強い創作部分だったのです。
助さん・格さんは実在したのか?

水戸黄門といえば、いつも隣にいる「助さん」「格さん」。
この二人はドラマでも人気のキャラクターですが、果たして実在したのでしょうか?
ここでは、そのモデルとされる人物や講談での脚色、史実とのズレについて解説します。
佐々木助三郎と渥美格之進のモデル
結論から言うと、助さん・格さんにはモデルとなった実在の人物がいます。
助さんのモデルは「佐々木助三郎」、格さんのモデルは「渥美格之進」。
どちらも水戸藩に仕えた家臣で、光圀に近しい存在でした。
ただし、彼らが光圀と一緒に全国を旅したという記録はありません。
史実では、藩内での実務や補佐を担った忠臣に過ぎないのです。
つまり、ドラマのように旅の道中で大活躍する姿は創作。
「黄門様を支える頼れる二人」というイメージは、講談や芝居によって膨らませられたものです。
講談で脚色されたキャラクター性
講談の中で助さん・格さんは、庶民に親しまれるヒーロー的存在として描かれました。
- 助さん:血気盛んで正義感が強い
- 格さん:冷静沈着で知恵者
この対照的なキャラクター設定が、物語をわかりやすくし、娯楽性を高めたのです。
史実ではただの藩士でも、講談では“バディ役”としてドラマ性を演出する役割を担ったわけですね。
史実とのズレとエンタメ性の融合
助さん・格さんは確かに存在しましたが、講談やドラマで描かれる姿は大幅に脚色されています。
- 実際は全国漫遊をしていない
- 悪人退治の場面は創作
- ドラマ性を高めるために性格も脚色された
しかし、この脚色があったからこそ、水戸黄門の物語はエンタメとして広く親しまれるようになったのです。
言い換えれば、「史実」と「物語」が融合してキャラクターが完成したと言えるでしょう。
水戸黄門 原作を知る意味とは
ここまで見てきたように、水戸黄門の物語には明確な原作や作者はいません。
講談から始まり、小説やドラマで形を変えながら親しまれてきました。
では、私たちが「原作」を理解することにはどんな意味があるのでしょうか?
史実を知ることで物語がもっと面白くなる
結論から言えば、史実とフィクションの違いを知ることで水戸黄門はさらに楽しめるようになります。
光圀が本当に歩んだ人生を理解すれば、「なぜ講談師はあえて旅を描いたのか?」という創作意図も見えてきます。
事実を押さえることで、エンタメとしての脚色もより味わい深くなるのです。
講談・小説・ドラマの違いを楽しむ視点
水戸黄門は、
- 江戸時代の講談
- 明治期の小説『水戸黄門漫遊記』
- 昭和以降のテレビ時代劇
とメディアを変えながら進化してきました。
それぞれの時代背景に応じて「正義の形」が変化している点に注目すると、歴史文化の学びとしても興味深いですよね。
まとめ|水戸黄門の原作を理解して得られる知識
最後にポイントを整理しましょう👇
- 水戸黄門の原作は講談にあり、作者不明の“口承文化”から始まった
- 徳川光圀の史実像と「世直し黄門様」の物語像は大きく異なる
- 助さん・格さんは実在人物をモデルに脚色されたキャラクター
- 原作を知ることで、講談・小説・ドラマの違いを楽しめる

「原作」を知ることは、歴史の理解とエンタメの楽しみを両立できることにほかなりません。
コメント